私的な事情により、8月15日という日が昨年から私にとって特別な意味を持つようになったため、この日によせて私の平和についての思いをいささか書きつづりたいと思う。

一昨年の晩秋のことであるが、わが真宗大谷派のある僧侶の話を聞く機会があった。法話という形式とは異なるのだが、門徒の聴衆を前にしての僧侶の語りというものであった。

その僧侶が話の最中に突如こんな言葉を発した:「わたしは世界平和を願ってるんです」─。

私は耳を疑った。恐らくその時の私は、文字通り目が点になっていたのではないかと思う。

唖然としている私をよそに、その僧侶は改めて、キラキラとしたまなざしと恍惚の笑顔で、こう言い放った:「わたしの願いは世界平和なんです」─。

私より年長で私よりもずっと長く聞法してきたはずの僧侶の口から、まさかそんな間の抜けた言葉がサラッと発せられるなんて、にわかに信じがたかった。はっきり言うが、その時私は、この人は一体今までお寺で何を聞いてきたのかと訝しんだものである。

「わたしは世界平和を願ってるんです。わたしの願いは世界平和なんです」─。

なるほど、あなたは世界平和を願っているのか。大いに結構なことだ。実をいうと、私も世界平和を願っている。

何らかの重篤な精神疾患を得ていたり、異常な嗜虐欲の持ち主でない限り、世界平和を願わない人などいないだろう。安倍晋三氏も世界平和を願っているし、習近平氏も金正恩氏も世界平和を願っている。ドナルド・トランプ氏だって世界平和を願っているし、ウラジーミル・プーチン氏だって世界平和を願っている。東條英機だってフランクリン・ルーズヴェルトだって世界平和を願っていた。

自分を含め世界の誰もが平和を願っているはずだ。なのに世界平和が実現されないのはなぜなのか。実は平和を破壊するものを私自身が宿しているのではないのか。聞法者であれば、そのような悲しみと慙愧をくぐり、それでも己を善しとして抗い続けるエゴのすがたを真宗の教えにさんざん照らされてきたはずである。

「わたしは世界平和を願ってるんです。わたしの願いは世界平和なんです」─。

一体何を言っているのか。今までお寺で何を聞いてきたのか。大谷幼稚園からやり直してきたほうがよいのではないか。

あなたの正体を教えてあげよう。

まず、世界平和への願いというのは、世間一般の大多数の凡人たちの心には宿り得ない、特別崇高な願いである、とあなたは考えている。そして、そのような願いを持つ自分のことを〈世界平和を願うイイヒト〉という特別崇高な宗教エリートに位置付けている。一方、その対立項として〈世界平和を破壊するワルイヤツ〉が世の中にたくさんいると考えている。だから、あなたはキラキラとしたまなざしと恍惚の笑顔で「わたしは世界平和を願ってるんです。わたしの願いは世界平和なんです」などとクスリでラリったように宣言するという醜態を、恥ずかしげもなくさらしてしまう。

さて、ここまできて、頭の悪い人が「世界平和を願って何が悪いのか」と食ってかかってきたりするかもしれない。だが、本記事を最初から読み返してみてもらえば分かるように、世界平和を願うのが悪いなどとは私は一言も述べていない。何せ私自身も世界平和を願っているのである。

また、曲がりなりにも僧侶であればいくらか仏法をかじっているので、「確かに誰でも世界平和を願ってはいるかもしれないが、私が願っているのは仏教に基づく『兵戈無用』の世界平和だ」などと小賢しいことを抜かしたりもするだろう。そういう思考回路を、よく知られた言葉では「八紘一宇」という。自分の勝手な願いを正当化する道具として仏教を利用しているにすぎない。あなたが願っているという世界平和、たかが人間風情が自分の都合で夢見る〈ぼくにとってきもちのいいせかいへいわ〉が、御仏の願われる「兵戈無用」と同じであるわけがない。

自分が〈世界平和を願うイイヒト〉であることをアピールし、そうであり続けるために設定した〈世界平和を破壊するワルイヤツ〉という対立陣営と争い続けても、何も一ミリも進展しない。少なくとも浄土真宗の教えに聞く者が世界平和を思う時には、何度でもこの出発点に立ち帰り続けなければならないと思う。

世界平和を願っているつもりの自分が、本当に世界平和を願っているのかと、常に問われ続ける道を、幸いにして私は歩ませていただいている。件の僧侶を含めて多くの勘違い僧侶たちも、今からでも遅くはないからこの道をともに歩んでくれたらと、心より念じてやまない。