戦争と平和ということを考えるとき、実は世界平和なんてちっとも願っていないのが私なのではないかと、改めて問いかけられる思いがする。

一昨年亡くなった法友は身体障害者であったが、その彼が言っていたことを思い出す:

「障害者やなんかで作ってる〈9条の会〉があって、私も集会に参加するんだけど、その会の趣旨ってはっきりしてんのよ。戦争になると軍人ばっかり威張り散らして、障害者は真っ先に切り捨てられるから、そういう時代になるのは嫌だってこと。これって、やたら大きく世界平和がどうとかいう話をするより、よっぽど純粋で正直だと思うんだよね」─。

そういうことだ。実は〈9条の会〉だって世界平和など願っていないのである。

私は別にここで〈9条の会〉をたたきたいわけではない。確かに〈9条の会〉の人々は世界平和を願ってはいるのだろう。私だって世界平和を願っている。しかし、そう言いながら実のところ〈9条の会〉は真に世界平和なんか願っていないし、私だって真に世界平和など願っていないのだ。

先に引き合いに出した法友の話でいえば、障害者などで作る〈9条の会〉の願いとは、自分たち障害者等が切り捨てられないことであり、戦争になると自分たち障害者等が切り捨てられるから、戦争にならない環境を守りたいだけなのである。

これは私も全く同じだ。私が願っている世界平和は、実は世界平和ではない。空爆されたりして生命と財産を脅かされるのは嫌だし、私の払った税金で人殺しが行われるのも夢見が悪いので、国は戦争をしないでほしい、と思っているだけのことである。世界平和なんて実はどうでもいいというのが私の根性なのである。

「そんなことはない。私はお前とは違う。私は心から世界平和を願っている。親鸞聖人の教えに生きる私は『兵戈無用』を願っている。生きとし生けるものすべての命が尊い」──などと寝言を吐く真宗僧侶・門徒のほとんどは、ルワンダ紛争なんか知らないし、アブ・サヤフなんて聞いたこともないだろうし、どこにあるのか知らないがシリアという国の名をニュースで聞きかじったことがあるだけというのがせいぜいだろう。シンリャクした悪の帝国ニッポンを告発するイイヒトになり、戦争をしたがっている悪の軍団ジミントーを打倒すれば、仏国土の建設と世界平和が実現する、という程度の浅はかな発想しか彼らは持ち合わせていない。たぶん最近話題になりつつある「有志連合」についても、よく分かっていないくせに脊髄反射的にハンタイを連呼するだけであろうことが容易に想像される。だって、今まで何かにつけていつもそうだったではないか。

はたから見ればただの馬鹿なのだが、なまじっか仏法なんてかじっているものだから、自分は世法を超越した真理を心得ていて世間の連中より賢いと勘違いし、仏とまでは言わないまでも模範的な仏弟子の気分で「兵戈無用」の旗を振ったりしつつイイキモチにラリっている。そんな己の姿を一度くらいちゃんと直視したらどうか。

私は世界平和など願っていない。あなたも世界平和など願っていない。でも、みんな本当は深いところで「兵戈無用」を願っているのではないか。まずそこに立たなければ、世界平和への願いは始まらないだろう。私もあなたも、世界平和など願っていないのだ。