テクスト: 中村文則『掏摸』 東京、河出書房新社、2013年。初刊は同社、2009年。

〔2016年3月28日(月)読了〕

とても良質なエンターテインメントを読み終えて、私の気分はしばらく昂揚したままだった。

文字通り、スリの物語である。主人公は東京の天才的スリ師。その手際の良さたるや、まさに芸術といってよい域だ。金持ちの財布だけを狙うので、日に数十万円をさらりとつかむことも珍しくない。ローン・ウルフだが、ある時から万引き母子と関わりを持つようになる。

その彼が、最も会ってはまずい男と新宿で再会してしまった。その男が危ない仕事を持ちかける。

「‥‥お前に、やってもらいたいことがある」

男はそう言い、僕の顔を見た。僕は、席をすぐ立てるように、足に力を入れようとした。

「……断る」

喉が圧迫され、息が苦しかった。男が息を静かに吸う気配を感じ、僕は立ち上がろうとした。

「……最近、仲良くしてる子供がいるな。あの母親とはもう寝たか?」

[118-19頁]

彼は男に抗えない。運命を握られてしまっている。一方で、知り合った子供を母親から切り離して運命をましなほうへと規定しようとする。

無機的な文章は感情らしきものを感じさせず、それゆえに身の奥深くに呼びかけてくるものがある。つまるところ、ひとりひとりの人間の存在とは何なのであろうかと、そんなことを考えさせられる。ただのピカレスクではない。

人間は生きる。生きるのだ。最後の一段落の、まさに最後の一文が、そんな叫びに思えた。