浄土を求める者同士が戦う世の中
今年1月から放映中のNHK大河ドラマ「どうする家康」といえば、何かとツッコミどころが多いことで話題になっていたりするが、私は今のところ欠かさず見ている。さすがにあの中国の宮殿みたいな清洲城とか、桶狭間の頃から西洋風のマントを羽織っている織田信長とか、それってどうなのよとは思いつつも、全体としては結構気に入っているドラマである。
気に入っているポイントとしては、何といっても、徳川家康を頼りないダメダメな奴っぽく描いているところだ。主役の戦国武将だからといって、変にかっこよく仕立てていないところがいい。物語は必ずしも史実に沿っているとはいえないにせよ、実際に若い頃の家康はこんなふうだったのだろうと思える描きかたをしている。
さて、一昨日(5日)放映された第9回「守るべきもの」では、家康から離れた所でひときわ印象的な場面があった。
本多正信が一向一揆側に付くに至った経緯(その中身は明らかに史実とは異なると思われるけれど)が逸話的に挿入されていたのだが、その中で、大けがを負った遊び女が六字名号の札に手を合わせて必死にお念仏を称える場面があった。「この世は苦しみばかり。早う仏さまのもとに行きたい」と。彼女のお念仏が、私の称えるのと同じお念仏だと知った時、ああ、こういう人々が相続してくれたのだと思い、目頭が熱くなった。
このドラマは、今までになく丁寧に一向宗を取り上げているように思う。
今回の第9回は、なかなか優れた構成だった。家臣を信じられなくなった家康が、たとえ裏切られても信じると心を定めつつ、和睦した一向一揆の空誓の信用は裏切ることになる。そして、一向一揆と戦う家康だが、しかし旗印にしているのはあの「厭離穢土欣求浄土」である。そう、遊び女が六字名号に手を合わせながら言った言葉「この世は苦しみばかり。早う仏さまのもとに行きたい」と同じ意味だ。
浄土を求める者同士が戦をする。それが人間の世の中である。
家康は一向一揆との戦いののち、正信の激しい非難を受けて、泣きながら「過ちをすべて引き受け、わしは前へ進む」と言い切る。これは「唯除五逆誹謗正法」の自覚かもしれない。己が決して正しいとはいえないことを知っている、何とも器が小さくて魅力的な武将だ。そしてこのことは、武田信玄の間者であることが明かされる望月千代によっても指摘されるのである。