昨日放映されたNHK大河ドラマ「光る君へ」第7回「おかしきことこそ」──についての話の前に、前回(第6回「二人の才女」)のことを少し。

私は漢詩に詳しくないので、漢詩の会の中身については触れなかったのですが、詳しい方々があちこちで解説してくれていることによると、藤原行成、斉信、道長の漢詩はいずれも白居易(白楽天)の詩を引いたものだそうです。そして最後の公任だけが自作の漢詩を披露したのですが、これは本当に彼が詠んだものを作中で使ったのだそうです。ただし実際の彼の作の2首から抜き出して組み合わせたものだとか(道理で「吟」と「看」で韻が変だったわけです)。本当にこのドラマの脚本はいちいち深すぎますね。映画ならまだしもテレビドラマ(しかも連続もの)でここまで気合いの入った作りはそうそうないでしょう。

さて、前回の道長からよこされた和歌に対し、今回のまひろ(紫式部)がどう返歌するのか、「百人一首」で知られる「めぐりあひて‥‥」を流用する脚本になるか、それとも道長の和歌と同じく『伊勢物語』を踏まえたものになるか、といったところが楽しみだったのですが、結局まひろは文を返しませんでした。道長が「振られた!」と言っていた通り、これ以上はないというほどにきれいさっぱりと振られた格好です。

平安貴族の女性であれば、和歌をよこしてきた男を振るにしても返歌で振るものであり、返歌もしないというのはかなりすごい振りかただと思いますよ。ましてや右大臣家の子息からの文に対し、下級貴族の令嬢が全く返事をしないというのは尋常ではありません。何もしないのはよろしくないですよと、とりあえず何か返すように従者から諫められたりするものです。もっとも、まひろの従者は相手の正体が右大臣家の子息だなんて知りませんから、そんな諫言もしようがありません。まひろが返歌・返書をしないままにしたというのは、道長から離れなければならないという強い意志の表れであり、また彼女が断たなければならないと思っている慕情の激しさの裏返しなのでしょう。とにかくあの二人はややこしい関係ですからね。

道長のことを忘れたいということもあって、散楽の脚本家として鮮烈デビューを果たしてしまったまひろですけれども、真面目なことを言うと〈をかしきことこそめでたけれ〉の作風はどちらかというと(というか明らかに)清少納言です。『枕草子』と聞いて大概の人は冒頭の「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて‥‥」を連想すると思いますが、実際に読んでみると馬鹿騒ぎみたいな逸話も結構あるのですよね。『源氏物語』と違って『枕草子』はエッセイ集ですから、現代語訳なら読みやすいと思うので角川ソフィア文庫なんかでどうぞ。とりあえず今回いったん〈をかしきことこそめでたけれ〉に振れたまひろが、これをどう糧にして将来の〈もののあはれ〉に移行してゆくのか、楽しみなところであります。

今回の見どころは何といっても終盤の打毬でした。打毬の場面まで入れてくれてしまうとは、前回に続き今回も制作陣の気合の入りっぷりを感じさせます。普通なら予算と手間の都合から蹴鞠ぐらいで済ませてしまうはずです。観戦に来ていた女性たちは御簾越しに見るはずだ、などと野暮なツッコミをしてはいけません。そんなことをしたら画的につまらなくなってしまいます。テレビドラマはあれでいいのです。道長の姿を初めて目にすることとなった源倫子の表情、良かったですねぇ。こういう短いカットをさりげなく入れてくるのが本作のいいところで、だから一秒も見逃せないのです。もうね、とにかく「光る君へ」は放映7回目にしてすでに大河ドラマ史上最高傑作であることが確定しましたから、まだ見ていない人はまだ追いつけるうちにオンデマンド配信でもなんでも駆使して見たほうがいいですよ。

一方、打毬の試合のあと、うっかり上級貴族の男たちの本音を耳にしてしまったまひろは、大いに衝撃を受けてしまうわけですが、ああいう落ち込みかたってどうなのでしょうかねぇ。初めから身の程は分かっているはずでしょうに、現代人じゃあるまいし。そこはやはり平安貴族の女性らしく、和歌で男たちを翻弄してみせたらいいのにと思いますよ。実際彼女は前回、そんな感じの物語を散楽用に思いついていたのですから。ともあれ、あの体験がのちに紫式部をして『源氏物語』の「雨夜の品定め」を書かしめたと考えると、なかなか味わい深かったりもするわけで。