私が他人ごとについてまるで自分のことのように腹を立てるというのはまれなことで、ましてや、それが壁を殴りつけたいほどの激しい怒りで、怒りのあまりに目が冴えて眠れなくなるなどということは、恐らく人生で初めてのことである。

16日の全国高校野球選手権大会で、秀岳館(熊本)のベスト8進出を支えた同高吹奏楽部。部員たちは、この夏の吹奏楽コンテストの南九州大会出場をあきらめ、全国制覇を目指すナインとの夏を選んだ。「甲子園が僕らにとってのコンテスト」。伸びやかな演奏が歓声とともに夏空に響いた。

これはあまりにもひどすぎる。怒りのあまりにうまく言葉がまとまらないが、あえて書いてみる。

まず、この話が美談のごとく書かれていることが気に入らない。高校の吹奏楽部員には“吹奏楽の甲子園”といわれるものがある。吹奏楽部が、野球部の応援なんていうどうでもいいことのために、“吹奏楽の甲子園”への道を断念するなどという理不尽なことがあっていいはずがない。

これは別に、秀岳館高校吹奏楽部が熊本県大会で金賞を取るレベルだから言っているのではない。たとえどんな弱小吹奏楽部であっても、野球部の応援のためにコンテスト出場を断念させられる筋合いなどないのである。

これは私が常日頃から言っていることだが、おかしいことというのは、物事を逆に考えてみれば、簡単におかしいと分かる。この件に関していえば、野球部のほうこそ甲子園出場を辞退して吹奏楽部の南九州大会へ応援に行け、という話だ。

そもそも、吹奏楽部の事情を聞いた野球部員たちから「俺たちは俺たちで頑張るから、お前らは南九州大会でしっかり演奏してこい」という声が出てこなかったのだとすれば、そんな野球部はさっさと負ければいい。あさっての準決勝は辞退して不戦敗にしろ。

7月下旬の職員会議は2日間にわたった。多くの教員が「コンテストに出るべきだ」と主張した。吹奏楽部の3年生6人も話し合いを重ねた。「コンテストに出たい」と涙を流す部員もいた。

しかし演奏がなければチアリーディングもできず、応援が一つにならない。「野球部と一緒に演奏で日本一になります」。顧問の教諭に決断を伝えた部長の樋口和希さん(17)の目は真っ赤だった。

[同]

最終的に“吹奏楽部員たち自らの決断”という形に仕上げている学校側のやり方が、とても汚い。そんなわけがないことはアホでも分かる。

教員たちや野球部サイドからとは言わないが、学校内外の諸方面から無言の圧力があったことは想像に難くない。「吹奏楽部は南九州大会があるから、甲子園に行けないかもしれないんだって」「えっ、じゃあ、ブラバンなしの応援になっちゃうの?」などという会話がそこかしこで交わされている空気の中で、“吹奏楽部員たち自らの決断”もヘッタクレもあるものか。

そういうときにこそ「吹奏楽部は吹奏楽部としてしっかりコンテストでベストを尽くせ」と筋の通った指導をし彼らを守るのが、教員の役割ではないのか。仮に吹奏楽部員たちのほうからコンテストを断念すると言ってきても、それを叱咤してコンテストに出場させるのが、教員の役割ではないのか。しかるに、教員たちが自分で決定せずに“吹奏楽部員たち自らの決断”という形にして逃げるとは何ごとか。お前ら、教員なんかやめてしまえ。お前らには教壇に立つ資格などない。恥を知れ。

「演奏がなければチアリーディングもできず、応援が一つにならない」─。嘘である。応援にブラバンが入らない高校スポーツなんぞ、いくらでも思いつく。陸上部の応援にブラバンが入っているのなど、少なくとも私は見たことがない。だいたい、応援は一つにならなければならないなどと誰が決めたのか。

どうしても鳴り物が必要なら、吹奏楽部員以外の吹奏楽経験者を学校内外からかき集めて即席楽団でも作ればいい。どうせ観客席で音を鳴らすだけだ、演奏は下手でもいい。あるいは姉妹校のブラバンにお願いするという手もある。それも無理なら学校が金を出してバンドを雇えばいい。学校が金を出せないと言うなら、野球部員や家族が出せばいい。吹奏楽部員たちの青春を野球部の犠牲にしなければならない道理などどこにもないのである。

「甲子園が僕らにとってのコンテスト」─。吹奏楽部員たちが自分にこんな嘘をつかなければならないような状況を作った腐れ教員どもめ。「秀岳館高校教員」という肩書を見かけたら、そう思うことにする。